愛の様々な形
今回は、遅れての発行となりました。インフルエンザでちょっと倒れていました。私が愛を語るのは、滑稽に見えると思いますがインフルエンザの熱にやられたと思って読んでください。火曜日のお昼から悪寒を感じ、午後から家に帰って、リビングの暖房器具の前で寝ていました。会社から妻が帰ってきて、
「何度だったの?」と聞いてきました。
「38.5度」
「インフルだろうと思うけど、明日にならないと多分検査ででないだろうから、今日は寝るしかないよね。」と言って、二階に布団を敷いてくれました。
そのあとは、OS-1を持ってきてくれて、しばらく寝ていました。「夕食できたよ。降りてこれるなら今に来て食べて」とドア越しに声がかかり、居間に降りると、娘がマスクをして黙って携帯を見ていました。一人で食べて、それからまた寝室で一人で寝ました。
次の日の水曜日は、熱が下がってきたので、自分で朝食を作って一人で食事をして、病院に行きました。予想通りインフルだと判定をされて薬を服用しました。解熱剤も効いてかなり体は楽になりました。お昼も一人で食事をして、布団で寝ていました。夕食ももちろん一人で、娘は居間でマスクをして携帯を見ていました。
この2日間ほとんど家族と会話はありません。息子は後期試験中でしたので、二日間、顔を合わすことがなかったです。きっと意図して合わないようにしていたと思います。
初日の火曜日には、俺だったら、「インフルか! こりゃ危ない!」などと声をかけてたり、居間で会ったら「大丈夫か?」と声をかけるけど、うちの家族は何もしないんだなぁとちょっと寂しい感じをしていました。
二日目の水曜日になると、自分のペースでできるので、声をかけられない方が楽な事に気が付きました。
初日の私は、何も声をかけないことは無視されているように感じていましたが、実は、私の状況を見て、声をかけないように気を使ってくれていたことが分かりました。
以前、マラソンを走った時の気づきでこんなことを書きました。30kmを過ぎると、歩いている人が増えてきました。歩いている人を、抜き去るときに「頑張りましょう」と声をかけて、元気づけようという思いがわきました。
しかし、逆に私を抜き去った相手から「頑張りましょう」と言われたら、極限まで頑張っている。これ以上どう頑張るのだ! あなたはあなたのペースで走ってください。私は私のペースで頑張ります。という思いがわくだろうなぁと思いました。
みんなこの大変な距離を極限まで頑張って、走っているのです。その事実を認めて、見守るだけでよく、わざわざ声をかける必要がないことに気が付きました。
と書いているにもかかわらず、初日の私は、家族から無視されていると感じ、声をかけて欲しいと思ったのでした。
私は「声をかかること(関心を与えたことが目に見えて分かること)」が愛や気遣いだという概念が強いことが分かりました。
しかし、このように黙って見守るということも愛であるというか、そちらが大事なように思いました。私には「関心を与えることが大事」と深層心理に組み込まれているので、何度も失敗をして、声をかけることもあろうと思います。そんな時は、許してください。
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