「やらせてください」と「やります」の違い
- 2月15日
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更新日:17 時間前
皆さんは、自分の言葉が「誰」を向いているか、意識したことはありますか?先日、経営塾での出来事です。ある一人の参加者が「五誓の言葉」という過酷な研修に挑んでいました。これは、5つの誓いを試験官に届くまで全力で叫び、試験官が「伝わった」と認めるまで終わらない研修です。ただ大声を張り上げても伝わるものではありません。
私は別の研修を受けていたのですが、彼の必死な声が響いてきました。何度か挑戦した後に、試験官が「まだやりますか?」と問いかけました。それに対し、彼は即座に、「やります!」と答えました。その声を聞いた時、私は「心が折れていない。なんて頑張り屋なんだ」と感銘を受けていました。彼の合格を、心の中で確信していたのです。
しかしその時、傍らにいた師匠がぽつりと呟きました。「『やります』じゃないだろ。『やらせてください』だろ」。「『やります』という言葉は、自分が主体だ。自分がやりたいからやる、という独りよがりの決意に過ぎない。彼は、試験官が貴重な時間を割き、自分に付き合ってくれているという事実に、全く気がついていないんだ」。
師匠はさらに続けました。「頑張っている姿に騙されて『彼は立派だ』なんて思っているようじゃダメだよ」。この指摘は、私の胸に深く刺さりました。私は、彼の「熱量」という表面的なパフォーマンスだけを見て評価をしていました。彼が向き合ってくれている「相手への敬意」が欠落していることを見落としていました。試験官は、彼の成長のために、あえて厳しい役割を引き受け、真剣に対峙してくれています。
その事実を認めれば、「やらせてください」という言葉が出てくるはずなのです。この出来事を通じて、私は自分自身の生き方に反省しました。「自分はこんなに頑張っている」「自分は……自分は……」。振り返れば、私の人生やビジネスにおいて、主語はいつも「自分」でした。自分の情熱をぶつけることには一生懸命でしたが、その情熱を受け止めてくれる相手への感謝や、相手が費やしてくれているコスト(時間や思い)にまで思いが至っていなかったのです。
そもそも、社会は自分一人では生きていけません。私たちはあらゆる場面で、他人の力を借りることでしか生存できない存在です。しかし、現代社会には「お金」という非常に便利なものができたため、他人の力を借りているという実感が極めて希薄になっています。
対価さえ払えばサービスを受けられるため、あたかも「自分一人の力」で生きているような錯覚に陥りやすいのです。「お金さえあればOK」という勘違いは、いつの間にか私たちの心を自分主体、自分中心主義になっていきます。
お金を払っているのだから相手の時間を奪ってもいい、相手の労働を当然だと思ってもいい。そんな傲慢さが、無意識のうちに言葉の端々に「やります(=私がそう決めたから付き合え)」となっていくのだと思います。「やらせてください」という言葉には、謙虚さと、相手への深い敬意が宿ります。そこには「私のために、あなたの時間を使わせてください」という、相手へのご迷惑を認める姿勢があります。
お金というフィルターに隠された「他人の力」という事実を認めるためには、私は内観という課題に改めて丁寧に向き合っています。日々の中で「相手に何をしていただいたか」「自分は何をして差し上げたか」を一つひとつ、事実を丁寧に思い出す作業です。
こうして書き出してみると、愕然とします。自分には沢山の「していただいたこと」があり、それに対して「して差し上げた」ことは、驚くほど少なかったからです。「して差し上げたこと」は、自分でやろうと思えばできることです。それをやっていなかったという事実に、今、真正面から向き合っています。
正直に言えば、すぐに「相手主体」へと変われるほど器用ではありません。メールの一通、挨拶の一つを交わす際にも、ふとした瞬間にまた「自分が、自分が」という自己中心的な顔(自分の都合)が覗きます。
自分が「していただいている」事実を認め続け、自分にできるはずの「して差し上げたこと」を積み上げていく。この泥臭い内省の積み重ねこそが、お金で麻痺した感性を取り戻し、自分中心主義から脱却する道だと感じています。
「やります」という決意を、「やらせてください」という感謝へ。そのわずかな言葉の差が、人間関係を、そして人生の景色を、劇的に変えていくのだと信じています。
この経験を通じて、私は「やらせてください」という言葉の大切さを再認識しました。相手への感謝の気持ちを忘れずに、日々の業務に取り組んでいきたいと思います。
自分主体の考え・行動が、言葉に出てしまいますね。同じ言葉で、「~させていただきます」という、謙譲語のようで、自分が「やります」という意味の言葉も気になります。本来は、「~させてください」という言葉が適切な場面でも、言葉は柔らかでも、高らかに「~します」という一方的な宣言になっています。言葉もそうですが、その考え方、立ち位置に気を付けたいと思います。