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藤野 高明氏の講演

先日、経営者の仲間が、毎年行っている社員勉強会に、参加をさせていただきました。今年の講師は、盲学校を務めあげられた藤野孝明さんでした。最初は、社員教育に学校の教師を呼ばれたことに違和感を感じました。藤野さんの生涯を聞かせていただき、自分の甘さに気づかせていただきました。


藤野さんは1938年に福岡で生まれました。1946年の終戦後に、川の岸に捨ててあった単四の乾電池程度の大きさの金属の筒状のものを、友達と一緒に拾いを集めていました。中を見ると、砂のようなものが詰まっていました。


その砂を取り出すために、くぎを刺し込んだとたん爆発が起こりました。集めたものにも誘爆しました。乾電池のようなのモノは不発弾だったのです。一緒に遊んでいた二歳下の弟さんは、即死でした。


藤野さん自身は、この事故で両目の視力と両手を奪われました。弟さんは不発弾をポケットに入れていたため、下半身が粉々になりました。それ以来木端微塵という言葉が嫌いになったそうです。戦争が終わっても、子供が爆弾で被災し、(藤野さんの)両親にはつらい体験だったはずだとおっしゃいました。


当時、盲学校はありましたが、指がないと点字が読めない。手がなければあんまさんにもなれない(仕事がない)と理由で、入学を拒否されました。20歳までの13年間、不就学の状態だったそうです。今では考えられませんが、公的な教育が受け入れを拒否できた時代だったそうです。


18歳のころに、信頼している医者から、眼球に金属片が入っているから回復することはないと言われました。学校にも行ってない。目も治らないと言われて、藤野さんは自暴自棄になりました。未来への希望がなく、死のうと思うこともあったそうです。しかし、死ななかった。理由は、母親を悲しませたくなかったからです。


小さいころ、なにかあるたびに母親と喧嘩をしたそうです。そのときに「めくらになったのはお母ちゃんのせいだ。見えるよにしてくれ」と言いました。それを言われると母親は黙りこくるしかなかったそうです。


その時に近所のおばちゃんが、「あの爆発で、あんたの命も危なかっただよ。医者がもう痛い思いはさせないでおきましょうと言って、止血剤しか投与してなかったんだ。それをお母さんが、カタワになってもいいから生かせてくださいと懇願したんだよ、それで、あんたは生きているんだよ。お母さんに感謝しなさいよ」と言って藤野さんをなだめたそうです。この体験を思い出すたびに、死ぬのは止めようと思いとどまったそうです。


藤野さんは、人との出会いで人生は変わったとおっしゃいました。18歳のころに、看護学校の学生のKさんに北条民雄さんの「命の初夜」を読んでもらいました。ハンセン病に罹患した人の体験談でした。苦しみながらもしっかりと生きようと姿が生々しく描かれていました。


その本で、ハンセン病の人が唇や舌で点字を読んでいる事を知りました。もしかしたら自分もできるかもと思うようになり、練習を始めました。唇で点字を当ててみても、最初はツルツルとザラザラが判別できる程度です。それを繰り返し努力することで、唇で点字が読めるようになりました。講演ではご苦労はおっしゃいませんでしたが、残った腕で点字が書けるようにもなったそうです。点字で読み書きができるようになり、これで道が開けたとおっしゃいました。


点字で読み書きはできるようになりましたが、小学校2年から学校に行ってません。基礎学力がありません。特に数学と英語は、基礎から学ばないと難かったそうです。この勉強も看護学校のKさんがNHKの英語講座を点字に翻訳してくれたり、多くの人からの助けを借りてある程度学力をつけることができました。


地元福岡の中学へ入学を願いますが、二重障害を理由に断れます。あきらめずにいると、福岡の盲学校の先生の紹介で大阪の盲学校へ入学ができました。これまで、理不尽に13年間勉強するチャンスを与えられなかったことで、教師になることを考えはじめました。盲学校を25歳で卒業され、それから大学を受験を挑戦します。その当時は、障碍者を受け入れているところは少しありましたが、二重の障害を持つ藤野さんは、受験すらさせてもらえませんでした。


こんなことで諦めません。藤野さんは、障害があることを隠して、通信制の日本大学に入学しました。62単位までは通信でなんとか行けましたが、これ以上の単位は、面接のある授業を受けなければなりませんでした。東京へ行くと、大学の事務局に障害があることが知られてしまいました。


事務局から、重度の障害があるので退学して欲しいと言われました。藤野さんは教師になりたいので、絶対やめたくないと伝えると、短大の卒業免許は出す。それで社会の教員は取れると言われました。


この条件を受けいれて諦めたら、大学で学ぶことはできなくなります。一緒に通信制で学んでいた学友が支えてくれて、大学受講を事務局に認めてもらいました。5年半をかけて卒業しました。ようやく教員免許は取得しましたが、その当時は、点字を使った採用試験はやってませんでした。大阪市、大阪府に陳情し、32歳の時に受験することができました。


147人中24人合格のうちの一人に入れました。しかし当時の教育委員会は、障がい者を差別していました。「一人でトイレに行けるのか? 一人でご飯を食べれるのか?」と質問をされて、大丈夫と返答しても結局採用をされませんでした。


採用は1年半で資格がなくなります。それでもう一度採用試験に挑戦し、合格しました。ようやく母校の盲学校に採用をされました。


先生になっての藤野さんは、平凡な先生になることを望みました。その理由は、普通のことをやっても障害があれば、良くやったと褒められるます。そこに居心地の悪さを感じ、宮沢賢治の「ほめられもせず苦にもされずそういうものにわたしはなりたい」と言う境地になりました。


そのことを今まで支えてくれた方々に伝えると、言ってることは分かるが、障害を持っていても胸を張って生きていける学生が目指す先生になって欲しいと言われて、二度と平凡な先生を目指すなんて言わない。一流を目指す。立派な先生になると決めました。


ここまで来れた理由を「継続は力なり」とおっしゃいました。後から聞いたことですが、点字を読むのは、健常者が本を読むスピードに比べて1/2から1/3だそうです。先生として知識を得るためには、並外れた努力をされてきたと思います。


参加した中学生からの質問で「もし目が見えるようになったら何を見たいですか?」と問われて「子供や孫の顔が見たい。愛している人の顔が見たい。美しいもの、醜いものは触ってても分からない。」と答えられました。


この答えを聞いて、私は十分恵まれていると思いました。なのに多くの不満を持っています。その不満を解消するために、どれだけの努力をしたのかと自分に問うてみると恥ずかしくなります。自分の甘さを気づかされた講演でした。このようなチャンスを頂き、仲間には感謝しています。



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