古文を学ぶ理由
- 辻 敏充
- 6月15日
- 読了時間: 3分
「古文の勉強を、なんでしなければならいの?」と思ったことはないでしょうか?
祇園精舎の鐘の音なんか、将来絶対使わないやんと私は思っていました。しかし、古文の先生に理由を聞くのは怖くて聞きませんでした。結局大人になっても古文を学ぶ理由は分からないままでした。
以前に、経営の師匠から古典の学ぶ理由を教えてもらいました。
その時のやり取りです。「辻さんは大学まで化学を勉強したようだけど、今になって使っているの?」
「使っていません。洗剤の表示を見るときは役立っています。そのくらいです」と答えました。
師匠がこのように言いました。
「古文は将来どこで使うの? と言って勉強せず、化学は文句を言わずに勉強をしたわけだ。結局、両方とも社会人になって使ってない。それなら、両方とも勉強しなければいいじゃん。古文を学ぶのが無駄とか、意味がないと言っているのはやらないための言い訳なんだよ。」
私には、まだよく分からなかったので、例え話で説明をしてくれました。
「今日は経営の勉強するためにお酒を飲まないと決めていたとしよう。帰ったら美味しそうなお刺身が出てきた。奥さんがいつも頑張ってくれてありがとう。奮発したのよ!って言われたらどうする?」
「飲んじゃいます」
「このように、奥さんの厚意を無駄にするのは悪いとか今日は特別とか理由を付けて、易きに流れていく。人は、やりたくないことをやらないために、自分が納得する理由を作っているだけなんだよ。古典を勉強しない理由も一緒なんだよ。」
ぐうの音も出ませんでした。
「頭のいい大学を出た人が集まる文科省が推奨しているから古文を学ぶ理由はキチンとあるんだと思うんだけど、私なりの解釈を言うと、無駄に感じる会議や面倒な報告書のように、人生においてたくさん表れるしたくなくても、しなくてはならないことをやれる人になるために古文の授業があると思っているんだよ」と言われました。
あれだけ勉強した化学が役に立ったのは、受験くらいです。だったら受験のために古文も勉強してもいいはずです。師匠の言う通り、古文をやりたくないから、無駄だと理由付けをしてたと思います。
得意な化学を使う場面は、人生において余りありませんでした。やりたくないとか面倒な古文のような課題は、よく目の前に表れます。クレーム対応、新しい法案への対応などそのたびに、いろんな理由を付けて後回しにしたり、やらなかったりを繰り返してきました。
その結果は、対応が遅れて問題が大きくなってしまった。期日に間に合わずに、急いでやってしまい、間違いが生じてしまった。などより傷口を広げたことがありました。
古文を勉強しないことで、直接的なデメリットはあまりなかったとは思います。だけどもその取り組み方には学ぶことがあったと思います。自分の上手な嘘に騙されず、なすべきことを、優先して行動をしていきたいと思います。
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