「いいことをした話」にならない理由
- 辻 敏充
- 5 日前
- 読了時間: 3分
私は、マイルールとして、公衆トイレを使わせていただいたときは、自分の体が触れるところ(便座)を拭いてから出ることにしています。便器の中まできれいにするつもりはありません。そこまではルールにしていません。やっている理由は「使わせてもらったから、元に戻す」という感覚です。
先日、急いで入った公衆トイレで、便器の中に汚物が付いているのを見ました。正直、少しげんなりしました。それは明らかに、私のマイルールの範囲を超えています。便器の中まできれいにすることは、自分に課していません。「これは自分の仕事じゃない」「ここまでやる必要はない」と、頭ではすぐにそう思いました。
そう思いながら用を足していたのですが、「これはルールじゃない」と思えば思うほど、意識はそこに向いてしまいます。水を流したあと、もう一度便器を見たときに、なぜかそのまま出ていく自分に引っかかりを感じました。誰に見られているわけでもないのに、「逃げるのか?」と問われているような気もしました。
少しの間、そこで立ち止まりました。正直に言うと、めんどくさいという気持ちの方が強かったです。別にやらなくても何も困りません。それでも、そのまま出ていく自分の姿を想像すると、なぜか居心地が悪くなりました。結局、トイレットペーパーを取って、便器の中を拭きました。終わったときは、「やりきった」という感じでした。達成感というより、引っかかりが一つ取れた、という方が近いかもしれません。
その後、勉強会で師匠がこんな話をしてくれました。師匠がコンサルしている会社の社員のAさんが、出社途中に小さなゴミを拾っていたそうです。周りには誰もおらず、たまたま同僚のBさんが遠くからそれを見ていました。
Bさんは、「誰が見ているかに関係なく、ああいう行動が取れる人になりたいと思いました。どんな言葉よりも、小さな行動一つの方が力があると実感しました」と師匠に連絡したそうです。そして師匠は、「このBさんからの連絡が、私にとって一番の誕生日プレゼントです」と話していました。とてもうれしそうに話していたのが印象に残っています。
その話を聞いたとき、私は自分のトイレの出来事を思い出していました。「自分はそこまで自然じゃないな」と感じました。私は、やるかやらないかで迷いました。ただゴミがあったから拾う、という動き方ではありません。私は、極端に言えば「自分が良い人でいたい」からやったのかもしれません。目的は、自分のためです。
一方で、Aさん「良い人になろう」とも思っていないし、「見られているか」も気にしていない。ただ、ゴミが落ちていたから拾った。それだけです。そこには自己評価も、計算もなさそうです。
私はその差に、少し恥ずかしくなりました。今回のトイレの件も、「いいことをした話」にするつもりはありません。ただ、「自分はこういうところで迷って、こういう選択をした」。その事実があった、というだけです。
たぶんこれからも、同じような場面で同じように迷うと思います。めんどくさいと思いながらやることもあれば、やらない日もあるかもしれません。悩まずにやるときもあるかもしれません。どんな自分かをよく観察していきたいと思います。
私も自分が入ったトイレの蓋が汚れていればきれいにしたり、トイレットペーパーの切れ端が床に落ちていれば拾ったりして、自分が入った後のトイレに次の人が入った際に、気持ちよく使ってもらえるようにしています。それは次に自分が使うかもしれず、自分事として次の人が気持ちよくなればいいという思いでそうしております。汚れたトイレを使って、その人のテンションが下がれば、世の中的には、その分のテンションが下がったことになり、その分損失ではないか、と少しマクロ経済チックにも思ったりもして、そうやって自己肯定しているのかもしれません。いずれにせよ、正直げんなりするほどのトイレに遭遇したときに、「よーし、いっちょやるか」となるか、「えー、マジかよ」となるかは、私の覚悟を測るテストかと思いますが、幸い遭遇していません(笑)。
何が面白いかというと、そういった時の自分の心の動きです。 私も、お客さんの所のトイレや飲食店で使わせてもらったトイレで時々、ちょっとだけきれいにしてから出てきます。
溢れていたペーパータオルをゴミ箱に入れたり、便器をちょっときれいにしたり、汚れている床を拭いたりということです。 その行為を誰も見ていないし、誰も知る事もないでしょう。 でも、自分の心には、誰も知らないからこそ何かが残ります。 それにどんな意味があるのかわかりません。 でも、大げさに言えば、自分が何のために生きているのかに通じるような何かがあるような気さえするのです。